醜い遺産相続

この間、祖母の話を長々と書きましたが、葬式の後、四十九日の話ですが・・・・
やはり遺産相続がおきました。
といっても、土地は長男に譲渡されていたり、祖母がボケた時点で長男夫婦が田畑を売ってしまっていたのでさほどなかったのですが・・・・・・・・・・
兄弟たちが母に言った言葉は

‘姉ちゃん、ばあちゃんが株券預けただろう。俺たちの取り分ちゃんと分けてくれよな。
姉ちゃんのもらい分は、姉ちゃんの娘たち(私と妹)に買ったお土産やおもちゃ、それとこずかいの分、、千葉に行った時にばあちゃんからもらったお前のこずかいも引いて計算しろよな’


と言ったのだ。
要するに、祖母が生きていた間に母や私にくれた金は自分の遺産から引けというのだ。
本当にアホな兄弟だ!
母はこれにはさすがに腹を立て

‘あんたたち!かあちゃんはね、そんな人ではなかったでしょう!
千葉に来るときには必ずあんたたちの娘や息子にこずかいをおいてきてるはずよ!
長野にいるときは、その時その時にちゃんとあんたたちにもこずかいをやって、孫にだってプレゼントを買ってるはずですよ。
かあちゃんは、誰にでも平等だった人よ!何いってんのよ!
そんなこというなら、あんたたちも自分のこずかいと、自分の子供たちにやったこずかいやプレゼント代いくらかかったかちゃんと計算して私にいいなさいよ!
その分差し引いた後に、平等に兄弟の頭数で株券わけてやるわよ!’


と怒鳴ったそうです。

この間母に、祖母のことを書くから今おじたちがどうしてるか教えて。と聞いたら、
なんでも、自分の母親の姉妹に(叔母たち)こまめに連絡を取ってるそうだ。
長男と次男のところは、年に一度旅行に一緒に出かけたりしているらしい・・・
三男のことはあまりよくわからないと言っていた。
叔母たちを大切にしてるのは、祖母への供養もあるとかないとか・・・・・・
祖母の姉妹たちは、皆金持ちに嫁に行っている。
一人は群馬の大地主である。
もう一人は横浜に邸宅をもつ金持ちである。
祖母は、実家を継ぐために長野に残り田畑を耕していたが、祖母の妹たちは皆良いところに嫁に行って専業主婦をしていた。(といっても昔の嫁なので大変だったとは思うが、祖母が一番苦労してきている)

私には、非情な叔父たちは、ただの金持ちに集まる蛆虫にしか見えないのだが・・・
そうではないのだろうか?

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by mummy71 | 2007-11-24 06:42 | 祖母

祖母への手紙~最終話~

知らせをもらい、すぐ家族で長野に向かった。
着いたときは、もう夜になっていた。
居間で、寝ている祖母にすぐに会いに行った。
そこで見たのは、右目に大きな青あざができてる祖母の遺体だった。
‘お母さん!見てよ!これいったい何があったの??’
‘あら、本当・・・いったいどうしたのかしら・・?!’

父は、黙って祖母に手を合わせていた。
私はかなり動揺していた。しかし、母は事を荒立てないように!とだけ私に言い残し、兄弟や親戚に挨拶に回っていた。

この日は、親族通夜のため祖母の姉妹や遠くの親戚など身内だけだった。しかし、祖母の身内もかなり年なので早々と床へとついた。
そして、残るは兄弟と私のいとこたち・・・
そこで、私は口火を切った。
‘ねーいったいおばあちゃんの右目のあざ何があったの?’
‘え?おらーきがつかなっかたなー’という次男・・
‘気が付かないはずないでしょ!あんなに大きなあざ!いったいどうしたのよ!おじさん!’
そこで、長男の嫁が口を開いた。
‘ばーちゃん、ベットから落ちて打ったみたいよ’
‘え?ベットって??布団に寝せてたのではないの?’
‘病院でベットだったからベットに寝せてたのよ。おばあちゃん、ボケてベットからよく落ちてたからね。’

これが、言い分だった。もっと言いたいことはたくさんあったが、母に目配せされ止められた。
母は祖母の葬儀を荒立てたくなかった。せめて葬式くらいは穏やかに終わらせたかったのだ。
祖母のためにも・・・

ベットからよく落ちてたなら、布団に寝せればいいことなど、アホでもわかること!
ベットから落ちたとは言え、どう考えてもあんなあざができるのはおかしい!
しかし、この答えはいまだに謎だ。

そして、叔父や叔母たちは
‘明日は近所の方もくるし忙しくなるからもう寝ましょう。’
と言い残して皆自宅へ引き上げてしまったのだ。
私は、母の顔を見て
‘は?ねえいったいだれがお線香の火を絶やさないようにするの?これってこっちのしきたりじゃないの??’
‘心無い人が残るより、おばあちゃんのことを考えてくれる人が残る方がおばあちゃんもうれしいのよ!いいじゃないの、私たちで見ましょうよ。’

と、その晩母と私と祖母の遺体のある居間で夜明かしをすることになった。

次の日、近所の人が朝早くからやってきて、私と母に少し睡眠を取るようにいってくれた。
そして、仮通夜の日を迎えた。

夕飯が終わると、突然うちの妹が
‘明日テニス部の試合があるの。大事な試合だから電車で帰るから!’
と葬式も終わってないのに言い出した。
私は、疲れと怒りから妹に平手打ちを食らわせ喧嘩になった。
母が止めに入り、泣き叫ぶ私をよそに妹を駅まで送りに行った。

そして、母が送りに行っている間に、酒を飲んだ父が母の兄弟、親戚に向かって罵声を上げていた。私には、何が起こっているのかわからなかった。
父は‘なんで、こんなことになったんだ’と皆を責めていたらしい。
後から、母は親戚の人に‘あんたの旦那は一本気な人だね。’といわれたそうだ。

私のいとこたちも、遅くまで残っていた。みんなで、いろいろな話をしていたら、そこへ長男の嫁が‘あんた夜勤明けなんだからもう寝なさい!’看護婦をしてる次女に言った。
たった、一日くらい寝なくても死にやしないし、彼女は当時27くらいだったはずだ。まだまだ、寝なくても体力のある体だ。まして、看護婦をしてるんだから・・・
と思ったのもつかのま、さっさと自宅へ帰ってしまった。

もう一人の娘は、3ヶ月の赤ちゃんがいるということで、母屋にろくに顔も出さない。
別棟の方で、休んでいるのだ。
そんなんなら、わざわざ横浜から出てくることもあるまい。3ヶ月の赤ちゃんなんて丁度3時間おきに乳をやるんだから、母屋で線香見ててもいいだろうが!

そして、次男の長女当時19歳くらいだった。それに向かって次男も
‘お前も疲れたろう・・・遅いから帰れ!’そして、高校生の息子にも‘ねえちゃんと一緒に帰れ!’といって子供たちを返すのだ。
いったいなんなんだこいつらは?
そうかと思うと自分たちもさっさと自宅に引き上げてしまった。

こうして、また私と母だけになってしまった。
さすがに、千葉から車で出てきてその上にその晩は睡眠をろくにとらず、そして、仮通夜・・・
みんなへの挨拶などなどの疲れから、母も明け方には居間で寝てしまった。

こうなったら、もう私一人ががんばって線香の火を絶やさないよう見ているしかない。
いくら21歳とは言え疲労から眠気がくる。
何かいいアイデアはないかと、考えに考え、祖母に手紙を書くことにした。
今は、どんな内容を書いたのか覚えていないが、お礼とおばあちゃんにたいしての気持ちをかきつづったのだと思う。
それは、便箋4枚にびっしりと書き込んだ最後の手紙だった。

そして、翌日葬式も終わり出棺。
たくさんの小銭(三途の川を渡るときに必要だとか・・)、短剣(身を守るために使うそうです)
身の回りのもの(入ればや大事にしていたものなど)、を入れて釘を打つ。
その時に、昨晩書いた祖母への最後の手紙を祖母の頭の横に置き
‘おばあちゃん読んでね。’といって祖母に最後の挨拶をした。
そして、火葬場で祖母の骨が出てくるのを待った。

祖母の骨が出てきた。
そこには、たくさんの骨があった。こげた小銭もあった。
そして・・・・・・・・・・・・・
なんと私の書いた手紙が、灰にならず黒く焼け焦げただけで原型を留まって残っていたのだ!!!
何百度の中、骨まで溶かす中、私の手紙、たった便箋4枚の手紙が残っていたのだ!
母と一緒に骨を拾い、最後に私のその手紙を母と一緒に箸で拾って骨壷の一番上に載せた。
箸でつまんでも、崩れないほど原型を留めていた。

祖母は、私の手紙を天国まで大事に持っていってくれたのだ。

こうして、葬儀を終えて私たちは千葉の自宅へと帰宅した。
私は、2度ともう祖母のいた長野へ足を踏み入れることはない、いとこたちともおじたちとも話すことはないだろうと思った。

祖母の49日などに行かなくても、3回忌に行かなくても、私の心の中で祖母への感謝は忘れていない、15年以上たった今も祖母への思いは消えていない。
この気持ちは、形だけのセレモニーなんかよりもずっとずっと大切なことだと思う。
そして、祖母はいつも私のことを暖かく見守ってくれていると思う。
祖母の着物の懐には、たばこと爪楊枝、ハンカチ、そして私の最後の手紙が入っていることだろう。

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by mummy71 | 2007-11-21 07:36 | 祖母

車椅子に乗った小さくなった祖母を連れて看護婦さんに祖母の病室に案内してもらった。
そこは、4人部屋だった。
まず目に付いたのは、祖母のベットの脇にあった書置きだった。
‘孫が生まれたので、横浜の方にしばらく行きます。1週間ほど帰らないと思いますのであとのことはよろしくお願いします’という長男夫婦の書置きだった。
そこには、緊急連絡先も何も記してはいなかった。
祖母に何か起こったときはいったいどうなるのだろうか・・・
大体、嫁に行ったんだから向こうにも助けがあるのに1週間もいってる場合か。2人で行かなくてもおばさんだけ行けばいい話だ!
看護婦さんに
‘お見舞いに誰かきてるのでしょうか?’
と聞いたのだが、濁した返事だった。

祖母の病室には花も、Boxのティッシュもタオルすらもなかった。
そして、看護婦さんに
‘おばあちゃんにゼリーを食べさせてあげてくれる。いつもは私たちがやるんだけどね。おばあちゃん付添いさんがいるわけではないからなかなかこんなチャンスないから’と・・

よく自体が飲み込めず聞いてみたら、祖母は誰も看病に来てくれないので、朝昼晩の病院食の他、たまにおやつに看護婦さんの手が空いているとゼリーを食べさせてもらえる。
普通は、お見舞いの人(身内)や付添いさん(やとわれ)がするそうだ。
祖母は、もう水が飲めないのだ。気管に水が詰まると危険なので水分をゼリーでとっている。
それも、誰も看病になどきてくれないので、朝昼晩の3食の時に補うか、ラッキーなら看護婦さんの手が空いている時に補ってもらえる。
それも、普通は身内がゼリーやプリンなどを名前を書いて冷蔵庫に入れておき、それをおやつにするのだが、誰も祖母にはそんなことはしてくれない。
看護婦さんが、たまにくれるゼリーも退院していった患者の者だ。
私は看護婦さんにすぐに戻ると言い残し、すぐ病院の中のスーパーへ走った。
たくさんのゼリーとそして、プリンを買ってきた。

そして、祖母にゼリーを上げようとして私が見たものは・・・・
長男夫婦の娘が、学生時代に使ってた‘カンペン’にきたないスプーンが入っていた。
娘たちももう大きくなっている。カンペンなんて10年くらい昔に使っていたものだろう。
錆びて汚くなっている中に、汚いスプーンがほおりこんであるのだ。

私は怒りが込み上げてきた。悲しみではない。このときにはもう怒り以外にはなかった。
タオルもない、花もない、ティッシュもあるわけではない、これだけでもひどいと思っていたが、カンペンにスプーンとはどういうことなのだ!
孫は、長野に5人いる。長男夫婦の下の娘は看護婦をしている。
次男の孫は、一人は高校生、一人はもう就職している。そして、次男夫婦も病院から車で10分のところに住んでいる。
三男は、三行半を下して依頼祖母の見舞いすらこない。
鬼!あいつらは人間ではない!
もう私は、怒りで涙が止まらなかった。

すぐさま彼と病院の近くのデパートに行き、花、花瓶、タオル、ティッシュ、スプーン、スプーンケース、濡れティッシュなど、あったら便利なものを全て買い揃えた。
そして、病院に帰り祖母の面倒をみはじめた。
祖母の足をさすってあげた。
‘どなたかぞんじませんが、ありがとうございます。’
祖母は何度も何度もお礼を言った。
側で手を握り祖母と話をした。
‘どなたかぞんじませんが、やさしいかたですね。ありがてえな。この年寄りに・・・’
と礼をいった。
当時の彼も、自分が祖母に育てられていた境遇から(実家が農家だったので、親は朝から畑、田んぼに出ていた)一緒に泣いていた。
そして、私に旅行を中止にして、ここに宿をとり祖母の面倒を見れるだけ見よう。といってくれた。こうして、私たちは毎日祖母の病院に朝から通ったのだ。
しかし、私たちには4日間という時間しかなかった。
お盆に入っても、誰一人身内は祖母の見舞いにこなかった。

そして、最終日、3人の知らない人が祖母の見舞いにやってきた。
祖母と長男夫婦は立正佼成会という宗教団体に入っていた。そこからきた人たちだった。
わざわざ、千葉からきた私を誉めた。そして、叔父夫婦を誉めていた。その中に一言
‘いつもおじさん夫婦からたくさんのおふせをいただいてます。おばあちゃまにも、ご利益が届くはずです。’と私に言った。
その瞬間
‘何を言っているんですか?仏門だかなんだか知らないけど?自分の母親の面倒もみれない馬鹿息子が偉い分けないでしょう!あなたたちも献金してくれればいい人なの?その金が先祖代代の土地を、ボケたばあちゃんから勝手に取って売った金でも?
馬鹿じゃない?だから、くだらない宗教団体は嫌いなんだよ!仏様も情けなく思ってるよ。そんな宗教団体じゃ!帰ってください!’

と、怒鳴り散らして奴らを蹴り出した。
そんな、献金!先祖代代の土地を売ってした献金なんてそんなもの偉いもへったくれもあるか!本人たちも少しでも神や仏に献金すれば罪が薄くなるとでも思ってるのか。
本当に、馬鹿ったれどもだ!
生きてる母親に感謝も出来ない奴にご利益もくそもあるか!

腹が立って腹が立って仕方なかった。私は今も宗教団体が大嫌いだ!神や仏の存在は信じているが、あいつらのしていることはおかしいと思っている。

こうして、最後の日が過ぎていった。次の日の朝、新しい花を買い、祖母への差し入れもたくさん冷蔵庫に入れ、看護婦さんたちにお礼とこの先の面倒も兼ね、お菓子の差し入れもして後ろ髪を引かれながら病院を去っていった。
祖母は最後まで私のことがわからなかった。

今度、あの祖母の足を誰がさすってあげるんだろう。祖母はいつゼリーが食べられるのだろうかと考えながら千葉の途へついた。
帰宅して、すぐ母に状況を伝え母になるべく早く祖母に会いに行って看病して欲しいと頼んだ。

そして、母はやっと時間をつくりその約2ヵ月後に祖母に会いにいった。
看護婦さんの話ではもう祖母を病院に入れておくことはできないそうだ。
祖母はぼけながらも‘おらー家に帰りてーだー。頼むからかえしてけろー’と言っていたそうだ。
夜中にベットからも何度か脱走しようとして落ちて、寝るときは手足の自由を奪われていた。
母が、長男夫婦にとりあえず祖母を家に戻してあげて欲しい。その後のこと、私も主人に相談してできる限りのことはするから。
とりあえず、時間を少しくれと言って帰ってきた。
そして、それから数週間後、母の元に祖母の死の知らせが入ったのだ。

明日へ続く・・・・・

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by mummy71 | 2007-11-20 06:58 | 祖母

長男夫婦が、先祖代々の土地を売ったということでもちろん相続争いが、勃発した。
祖母は生きているが、その頃にはもう毎年恒例の私たちの家にも訪れなくなっていた。
それだけ、ボケもひどくなってきたのだ。
次男は、気が弱いのでさほど強気にでなかった。
実家からも歩ける距離に暮らしていた。
嫁の両親は、よく訪ねてきたようだが、そこの家も嫁が強かったので祖母には少し敷居が高かったようだ。
嫁同士もさほど仲が良いわけではない。
結局、彼は姉であるうちの母に、いつも愚痴をこぼすだけだった。

三男は一番末っ子、彼は黙っていなかった。
長男、自分の兄と、ものすごい喧嘩になり最後には三行半をつきつけもう2度と会わないといってきたのだ。
それは、祖母、自分の母にも会わないという残酷な発言でもあった。
ようは、金だ。金をとったんなら最後まで責任もってボケた母を面倒みろ!ということだろう。

なんと、心のない兄弟たちなんだろう。母は兄や弟と話をした。しかし、嫁の尻に引かれてる彼らに話など通じるわけがない。

やっと、時間を作り母は祖母に会いに行った。
ボケた自分の母親を見て母もかなりショックだった。
それ以上に、兄が嫁の尻に引かれ母に対しての仕打ちに目をつぶっているのがショックだった。
街灯のない真っ暗な畑道を、母も祖母と一緒に歩いて長男の家に朝晩と通った。
母は兄の嫁に
‘年寄りあの夜道は、少し足元が危なすぎやしないだろうか?冬は風呂に入ってあの道を歩いて帰ったら、その間に湯冷めをして、風邪をひくのではないだろうか?’と言ってみたが、ボケた母の住む母屋でガスが使えるのは危険すぎる、自分たちも仕事があるので24時間見ているわけには行かない。と言うのが彼女の言い分であった。
母はそれ以上何もいえなかった。

夕食も、大きな鍋に煮魚を煮てそれをテーブルの端によせて家族でつついて食べるそうだ。
小皿に盛るわけでもない・・・祖母には届かない祖母からは一番遠いい場所でみんなで食べているそうだ。
お腹がすいても、彼らの時間に合わせて食べない限りおやつもお茶もないそうだ。
母は、そんな祖母を見てただただ一緒に泣くだけだった。
一緒に千葉に帰ってくれれば、と何度も聞いたが、祖母はそれでも決して首を縦に振らなかった。
祖母にこれ以上辛い思いはさせたくないと、母は兄嫁には、ボケた自分の母の面倒を見てくれてることに感謝を述べ、長男である兄に母のことを頼むと言って帰ってくるしかなかった。
ここで、母が小姑になっては祖母がいじめられるのだ。
どんなに、母にとって辛く後ろ髪が引かれたことだろう。

こうして、こんな祖母の生活が2年半続いた。

そして、夏のある日長男からの電話で祖母が入院したと連絡が入った。
母は、すぐに長野に飛んだ。
就職して働いていた私は休みを取るわけにはいかず母の帰りを待った。
母が、戻ってきて泣いていた。
おばあちゃん、小さく小さくなっちゃった。あんなに、体の大きな人なのにね。ボケもひどくて私のこともよくわからないみたい。弟に会いたがってた。そして、死んだ自分の弟にも会いたがってた。‘
と言っていた。
そう、あの争いのあと三男は一度も顔を見せることがなかった。
そして、祖母には弟がいた。当時20歳で死んでしまった年の離れたかわいがっていた弟がいた。そんなのもう40年近くも前の話なのに・・・祖母はしきりに弟の名前を言っていたそうだ。

私は、当時付き合っていた彼と夏休みの旅行の計画をちょうど立てていた。
彼に話して旅行先を長野にしてもらった。
そして、祖母に会いに言ったのだ。
病院に着くとおばあちゃんの入院しているフロアーへ行き、車椅子にボケた汚らしい小さな老人を乗せた看護婦さんに祖母の名前を告げた。
‘あれ!おばーちゃんよかったにーお孫さんきてくれたって。わざわざ千葉から!’そう、元気でいつも私のことを‘やさしいこだにー’となでてくれていた祖母はいなかった。
そこには、本当に小さく小さくそして、髪も抜けてあまりなく入れ歯も入れてないくしゃくしゃの顔、ボケて汚い老人がいた。
これが、私のあの祖母の姿だった。
切なくて泣いた。祖母の手を握って泣いた。
大好きなおばあちゃん・・・・どうしてこんなことになったんだろう。
‘おばあちゃん○○だよ!’と名前を告げた。
‘○○は私の娘の子供の名前です。私の孫なんですよ。’
‘だから、○○だって。ここにいるのがそうだよ!’
‘そうですか、どなたさんかしりませんが、あのこはやさしいこなんですよ’
ボケて私のことがわからないのだ。
こうして、私は祖母と約3年振りの再開をした。
もっと早く会いにこなかったことを悔いた瞬間であった。
しかし、この後悔は母の兄と嫁への怒りへと変わるのも時間の問題ではなかった。

明日へ続く・・・

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by mummy71 | 2007-11-19 16:36 | 祖母

昨日のブログで話したように、祖母は毎年冬になると春まで家に滞在していたので、私たちにとってとても近い存在の人だった。

祖父は、母がまだ子供の時に亡くなっている。だから、私は写真でしか見たことのない人。
祖父が亡くなってから、祖母は祖母の母と2人で、3人の息子と、家の母唯一の娘、4人の子供を育ててきた。
農家と蚕を飼って糸をつむいでいた。母の実家は結構それなりの家だった。
そんな祖母は、体が丈夫で結構あの当時の人にしては大柄な人であった。
そして、エコーというタバコを吸っていた。
祖母の着物の懐にはいつもエコーと爪楊枝そしてハンカチが入っていた。

祖母の好物はどらやき。
私は祖母が来る冬になると、必ずおこずかいで、祖母に近所の和菓子やさんでモチ入りドラ焼きを買って用意をして祖母の到着を待っていた。
私は祖母が大好きだった。

祖母のたくあんを食べるときのあの入れ歯の音が、いつも不思議だった。
タバコをフィルターぎりぎりまで吸っている祖母の手が熱くないのが不思議だった。
祖母が笑うとき、涙を流してむせるのが不思議だった。

祖母はいつも私のことを
‘おまえはやさしいこだにー’となでてくれた。

そんな、祖母のボケが始まったのは、私が社会人になった18歳のときだった。
私は、ひーばーちゃんのボケを子供の頃に見ている。
私が、ひーばーの枕もとに言ったときに突然
‘この子は私を鬼といったよ!’と叫ばれたのである。
それ以来、私はひーばーに近寄れなかった。
だから、祖母のボケが始まったみたいと母から聞いたときは、ショックだった。

祖母は長男夫婦と住んでいた。よくある話だが、嫁とはあまり仲がよくなかった。
母のボケが始まってすぐ、長男夫婦は‘畑をやる気はないから’と先祖代代の土地を兄弟誰にも相談もなしに、勝手に売って、自分の子供たちの大学資金に当てた。
そして、祖母の持っていた株を売った。
まだ、完全にボケていなかった祖母は、母に残りの株を全て送りつけて保管するように頼んだ。

就職して初めてのボーナスで、祖母に‘かのこ’の財布を買って送った。
ボケた祖母の引き出しに大事に使わずしまってあった。
未使用のその財布は、嫁が自分の母に送ってしまった。

長男夫婦は、同じ土地でも畑を挟んで別棟に住んでいた。
祖母の家が代代の母屋だ。
畑だけではなく今度は田んぼも売った。
そのお金で、別棟を建て増しして、母屋のガスの使用を止め祖母に毎朝毎晩自分たちの家にごはんや風呂に来るようにいった。

ボケた祖母は、電灯のない畑道を歩いて別棟に通った。
お茶を飲みたくても、ガスを止められてお湯もわかせない。
嫁がいないときは、近所にお茶をもらいにいったりしていた。
母に近所のおばさんから電話が入った。
‘さだちゃん、こしこちゃんね・・・ガスを止められてしまって、お茶も握り飯も自分では作れないようにされてしまってね。たまに、うちに・・・おらー腹減っただ。握り飯くれんかのーおらー喉乾いてお茶が飲みたくてしょうがないにーお茶いっぱいくれんかのーと来るのよ。’
と言ってきた。
それまで、このことは母は知らなかった。
母は祖母が不憫で泣いた。
そして、父に手をついて祖母を家に引き取らせてくれと頼んだのだ。
もちろん、父は2つ返事でそうしなさいと言ってくれた。

しかし、祖母は自分の生まれ育った土地を離れたくなかった。自分の娘や孫と住めるのは嬉しい、それに家の父が快く自分を迎えてくれるのは嬉しいと言っていたが、母にやはりここにいたいと言って断わった。

母は、このときのことを、今も後悔している。あの時無理してでも母を連れてくればよかったと・・
そうすれば、あと2-3年は長生きできたし、笑って死ねただろうと・・・

母は、祖母に電気ポットを送ったり、電気調理器を送ったり、電気で使用できるものを送った。
仕事をしていたし、まだ中学生の娘(妹)もいたので心配でも実家に母の様子を見に行くことはなかなかできなかった。
こうして、時間は過ぎていったのだ。

明日へ続く・・・
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by mummy71 | 2007-11-18 13:20 | 祖母

11月11日祖母の亡くなった日・・・・
あれからもう何年たつのかな。
母方の祖母は、毎年冬になると長野から出てきて春まで千葉の私たちの家で過ごしていた。
子供の頃、祖母がくるのがとても楽しみだった。
祖母はいつも着物や布団を縫っていた。私の大好きなおばあちゃんだった。

この間、母が荷物を送ると言っていたので、子供たちに矯正バシを送ってもらおうと電話をしたらちょうど送ってしまったと言われた。
めずらしく、今回荷物が多い割にEMSと高い郵便で母が送ってくれたそうだ。
どうしたの?と聞いたら・・・・・・・・・・・

祖母の命日の晩、母が夢を見た。
祖母に、私たちの着物のローンが払えないから、今月だけお金を貸して欲しいと、頼んだそうだ。そしたら、祖母が、金色にひかりたくさんの札束を出してきて好きなだけもっていくがいいよ!と母に言ったそうだ。
母は、今月の分だけでいいから・・・・ちゃんと返すからね!
と、祖母に言ったら、あの子達は、私の孫なんだから、孫の着物代を出してあげられて、私は嬉しいから、返す必要はないわよ。といったそうだ。
そんな夢を見て起きた母、久しぶりに祖母に夢でも会えて嬉しかったそうだ。そして、祖母が金色に光り、まるで観音様のように、穏やかで幸せそうでものすごく嬉しかったと言っていた。

そしてその日、本当は父と出かけるはずが、いつものことで父の気まぐれでキャンセル。
母は、美味しいものでも食べに行こう!と一人車に乗りドライブをしながら美味しそうな店を開拓していた。
ふっと通りかかった田舎道にパチンコやがあった。車がいっぱいで、リニューアルオープンでもしている感じであった。
パチンコが、大好きな母は美味しいもの開拓を止め、すぐそのパチンコやに入った。
どこもいっぱいであまり空きがなかった。やっと見つけたところに座るや否や出るわ出るわ・・
なんと37連発だったそうだ。
こうして、母はその日17万円稼いできたのである!

母はあの祖母の夢、多分これは祖母がくれたこずかいに違いないということで、私にEMSで荷物を送り妹に少し送金したそうだ。

母にこの話を聞いて私は
‘お母さん、お願いだから死んだ後私の枕もとにも立って同じことしてね!でも、私はもうちょっと欲しいなー’と母にお願いしてみた。
‘あんたは死んでまで親のすねかじるの・・・’と笑われてしまった。

この話を彼にしたら、‘なんでおばあちゃん君のところにはきてくれないんだよ!’
‘えー外国だからじゃない!’
‘死んだ人に関係ないだろう・・・’
‘うーんそうか・・・じゃーあんたが隣に寝てるから来づらいんじゃない?’
‘うーんそれはあるかもな・・・じゃー俺今夜からリビングのソファーで寝るよ!’
と真剣に会話していた馬鹿カップルであった。

おばあちゃーーーーん。私のところにも来てーーーーー!!


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by mummy71 | 2007-11-17 09:59 | 祖母